2009年12月07日

第4回 福岡アジア美術トリエンナーレ2009 共再生―明日をつくるために LIVE and LET LIVE: Creators of Tomorrow

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 第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009が、福岡アジア美術館会館10周年という記念の年に合わせて開催された。アジア21カ国・地域から新進の美術家を紹介するとともに、過去10年を振り返る意味もこめて、世界のアートシーンで飛躍しつづけている作家たちを紹介している。刻々と変化し続ける世界情勢のなかで、アジアとアジア美術の動向について、継続的な調査研究と交流事業によって見つめ続けてきたこのアジア美術館が企画した本展のテーマは「共生」と「再生」とを組み合わせた造語による「共再生――明日をつくるために LIVE and LET LIVE: Creators of Tomorrow」。アジアと世界、美術・伝統と社会、生き物としての人間などの問題認識のもとに1.既存の日常的な物体・素材・空間を解体・再構成することで活性化する作品 2.都市環境と自然の生態系、人間と他の生物の関係をテーマとした作品 3.隠されたり忘れられた歴史・記憶・伝統を蘇らせ、未来に継承させる作品 4.異ジャンル・異文化間、芸術家と市民・職人の共同作業による作品といった大きく4つのカテゴリーで構成されている。

 出品された多くの作品からは、メインテーマやカテゴリーに示された内容に沿った上で、現代あるいは未来をシビアに見つめたものが目立つように思われる。本展のカタログの表紙にも使用されている、Angki Purbandono(アンキ・プルバンドノ)の作品《空腹でいこう(Stay Hungry)》(2009)は、腐りかけた果実に玩具の犬が顔を突っ込んでいる様子を直接スキャンさせた作品を出品している。朽ちてゆく果実の中に顔をうずめた玩具の犬は、いったいどんな世界を垣間見ているのだろうか。また、Subodh Gupta(スボード・グプタ)の《スタート・ストップ(Start.Stop)》(2008)は、インドではありふれた(あるいは階級差別を暗示する)スチール食器を美しくそびえる高層タワーのように積み上げ、ベルトコンベアーの上に並べている。急速に発展する経済社会のなかでの人々の不安定さを暗示させている。今ある現実と対峙しつつ製作される作品からは「これからどう生きるか」という問題への答えを模索し続ける、アジアの生々しい息遣いを感じさせる。

 また、アジア独自の普遍的なモチーフを扱った作品にも、圧倒的な存在感が感じられる。2008年北京オリンピック開会式にて、花火による足跡のプロジェクトでも有名な蔡國強 (ツァイ・グォチァンCai Guo-Qiang)の《四季頌歌‐春生、夏長、秋收、冬蔵(Song for Four Seasons:Spring Birth,Summer Growth,Autumn Harvest,Winter Slumbre)》(2009)は、東京の曹洞宗 萬亀山東長寺からの依頼で制作されたもので、和紙の上で多くの種類の火薬を爆破させ、釈迦の生涯と四神獣を描き、万古輪廻、消滅盛衰の世界を表現している。中国では祝祭事には欠かさず爆竹が鳴らされ、日本においての花火も祝祭性をもつが、一方火薬は戦争や暴力と直結する。それをアートの表現方法として使用することに、この作家の「民族的背景」を感じる。

 それから、LEDライトボックスを使用し天井に展示された建安(ウー・ジエンアンWu Jian’an)の《九重天(The Heaven of Nine Levels)》(2007-2008)では、影絵職人との共同により、人間や虎や蛙や、現実には存在しない動物たちを精密な表現で入れ子式に図像化している。大きい者から小さい者へと自然の秩序にそって順に組み込まれた生物たちの姿は、強弱あるいは権力というものがいかに変化し続ける不確かなものであることを示しているという。アートが未来を先導する役目を果たすものであるならば、これらの作品からは今日の現実的問題を踏まえたうえで、「明日をつくるために」人間が必然的に思考する、あるいは最終手段として行う、希望や祈りがこめられているように思う。

 グローバル化が進むことで、アイデンティティーが叫ばれることは承知のことであるが、五重塔の隣に自由の女神はいらない。「共再生」とは、それぞれのもつ特質、際立った個性などがそれぞれの強い主張を収め、お互いに洗練され融合され共に生きる状態を意味する。こうならなければ、「LIVE and LET LIVE: Creators of Tomorrow」(生き、生かせ―明日の創造者たち)とはならないだろう。

(西本佳世)


第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009
共再生―明日をつくるために
2009年9月5日(土)-11月23日(月)
福岡アジア美術館、冷泉荘
http://www.ft2009.org/jpn/index.html


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2009年09月20日

「そこから何かが、あればいいと思う。」展

 「そこから何かが、あればいいと思う。」展は、女子美術大学内にある1.5号館ギャラリーにて2009年6月9日〜22日まで開催された。もともと2009年4月8日〜5月6日まで女子美術大学美術館(JAM)にて開催された「Caption Caption」展で展示されたキャプションの中から、私自身が担当したキャプション100枚を用いたものである。
 「Caption Caption」展では、女子美術大学の絵画学科洋画専攻の教授陣や助手、立体アート学科教授、デザイン学科教授の作品32点を展示し、西洋美術と日本美術を代表する作品のキャプションをA4サイズのパネルにして、約4000枚を会場の床に敷いた。この展覧会の目的は、制作された作品とその作品のものではないキャプションが存在する空間で、作品とキャプションの関係性やそこから生まれるタイトルの存在、アーティストとしての関わりなどを考えることにあった。展覧会では、この目的に関しては難しいがそれなりに達成されていたように感じた。
 だが初期のアイデアでは、出品される作品は数点だけであり、キャプションだけの空間を作る予定であった。それが様々な事情により、予定をはるかに上回る作品が展示されることとなり、キャプションが結果的にあまり目立たなくなってしまった。この点は反省するべき点の一つなのだが、“キャプションだけに囲まれた空間”というものを実際に狭い空間でおこなってみたいと思った。それをおこなうことによって、「Caption Caption」展とは別の体験を得られるのではないだろうかと考えたのだ。
 また展示されたキャプションは、すべて1937〜1945年の絵画(一部立体)作品だけのものを集めている。この年代というのは、日中戦争からアジア太平洋戦争終戦までであり、その間に制作されたいわゆる「戦争画」と呼ばれるものである。
 私は、幼い頃より「戦争」に関心を抱いてきた。なぜ起きたのか、その時どのようなことがあったのかなど、授業では軽くなでるように終わってしまうその時代は、玉音放送が流れた日から64年もたつ現在にも暗く影を落としているように思える。そのような幼い頃からの関心があり、また昨年に少しだけこの「戦争画」について調べる機会があり、戦中に画家たちが「戦争画」を描くことで活動していたということを初めて知った。
 東京国立近代美術館に所蔵されている「戦争画」は、アメリカから返還(正確には無期限貸与)された後、修復をしたにもかかわらず「戦争画」だけでの展覧会を開催することは難しくなった。そこには様々な問題が絡んでいるのだが、そうしたことが実現できないのであるのならば、実物の作品ではなく文字だけの展示なら可能なのではないか。そして、戦時中にあった様々な「戦争画」の展覧会をキャプションのみで疑似体験することもできるのではないかという企みもあった。

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    展示風景(1週目)

 だからといって「戦争画」を紹介しようとしているわけではない。「戦争」というデリケートな主題を取りあげることによって、ここでは「戦争」と「美術」の関係を考えるための装置として展覧会を捉えて欲しいと思った。「美術」に関わっている女子美の人たちに、かつてあった「戦争」と「美術」との関わりについて、少しでも考えて欲しいのである。この問題はいまだに解決されていないが、このことが現在の美術界の土台ともなっているのではないか。過去のこととして捉えるのではなく、これからを表現して行こうとする私たちは、未来のためにも「戦争」と「美術」の関係を考えるべきなのではないだろうか。
 「戦争」と「美術」は一見すると関係ないように思われる。しかし「戦争画」の存在ははっきりと「戦争」と「美術」が関係していたことを表している。
 展示は2週間おこなわれ、1週目に80枚、2週目に100枚のキャプションを展示した。作業に多少時間が掛かってしまったため、作業している様子も展覧会の一部とした。実際に100枚を展示してみると、ただ文字だけしかない、なんということのない空間になってしまったが、どこか不思議な感じもした。文字を読んでゆけば、この不思議な感じは更に助長されたのにちがいない。
 この空間をどれだけの女子美の人たちが体験したのかはわからない。だが、「戦争」と「美術」の関係や、キャプションという存在を考えるためのわずかなきっかけとなるこの実験は、私にとっては面白いものであり、新たに考えるための活動だったと思う。

(友岡あゆ子)

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    展示風景(2週目)

「そこから何かが、あればいいと思う。」展
2009年6月9日(火)-22日(月)
女子美術大学1.5号館ギャラリー
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2009年07月08日

別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」

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 市民主導型の現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」が2009年4月11日から6月14日まで別府市において開催された。開催終了の翌日の地元新聞は県内外からのべ9万4000人が訪れたと報告していた。
 別府は、かつて「東洋のナポリ」といわれた風光明媚な土地で、戦前は炭鉱王たちの豪壮な別荘が建ち並び、船旅を楽しむ世界中の人々がこの地を訪れた。アジア太平洋戦争において連合国は、勝利したあかつきには別府の温泉を楽しもうと目論んでこの地を攻撃しなかったという話もある。
 別府は今も、こうした温泉街のたたずまいを残す。もう昔の花街の繁栄は見られないが、小説の中でしか知らない大正・昭和の猥雑なエロティシズムの世界が今もなお色濃く残っていて、おどろおどろしいイメージが明滅する。「混浴温泉世界」という奇妙な名は、この街によく似合う。
 アートフェスティバルは、大きく二つのパートから成り立っていた。まず、国籍の異なる8組のアーティストたちが自身の作品を発表している国際展「アートゲート・クルーズ」。これは、中心市街地エリア、古くからの湯治場である鉄輪エリア、別府国際観光港エリアの三箇所において展開された。それから、別府市街地にあるステージ付きの公園と古い下宿アパート三棟を使った、国内の多くの若手アーティストたちによる「わくわく混浴温泉アパートメント」。
 鑑賞者たちはチケットのかわりとなるパスポートと地図を片手に細い路地裏などをさまよい歩く。そこで示される情景はどれも、アートを持ち込むことで日常の風景を再構成するというよりも、アートと元々の風景とが対立することなく共存しているように感じさせるものであった。それは、そもそも別府という土地が非日常の異質な雰囲気を漂わせているために、どのようなものが突如出現しようとも違和感なく受け入れることを可能とする土壌であるからだと言えるのだが、それ以上にアーティストたちが事前にこの地を訪れ、おのおのが気に入った場所に「その場所でしか成立しない」作品を提示したからだといえる。アートフェスティバルのタイトルの「混浴」とは、つまり「共生」を意味しているのである。

 トルコ出身でフランス在住のアーティスト、サルキスが作品の舞台として選んだのは、登録有形文化財に指定されている「聴潮閣高橋記念館」と別府湾を臨む「波止場神社」であった。文化的で宗教的意味合いの深い建造物であり、水と縁のある建物でもある。両作品には《水のなかの色彩》というタイトルがつけられていた。

 「聴潮閣高橋記念館」では、この館の所蔵物であろう肖像画が幾つも並べられた部屋の床の中央にモニターが置かれ、それと対になるように少し距離をおいて姿見が置かれている。モニターには、机の上に置かれた葛飾北斎作の白拍子の短冊と水を張った器が真上から映しだされている。しばらく見ていると、赤い絵の具をつけた筆がその器の水の中に浸され、赤い絵の具はゆっくりと澄んだ水の中で漂い始める。この様子は、とても不思議なのだが、次第に隣に置かれた白拍子の外郭を形づくり、紙の上に描かれている白拍子が、まるで水の中で踊っているかのように見えてくる。そして、対になった鏡には赤や黄色で作家自身の指紋が無数に押されている。
 もうひとつの展示場所である「波止場神社」はその名の通り、海のすぐそばに建てられており、背後は歓楽街となっている。境内の舞台の上には、天井画に呼応するかのように64もの白い器が均等に置かれている。その器の中には黄色い水が入れられており、長い会期中には完全に蒸発し、最後には黄色い沈殿だけが器の底に残ることになる。
 
 サルキスのこれらの試みは、場に触発されながら、場を触発するものとなっていた。そこには、場とのインタラクティヴな関係が成り立っていたのである。ここで「混浴」は、単なる「共生」から、「異和をともなう共生」へと踏み込んだかたちで捉え返されていたといえそうに思われる。

 最後に、この展覧会のパンフレットの言葉を引用しておこう。

大地から湯が湧きだし、窪みに溜まる。それは誰のものでもない。
人はそれを慈しみ、自発的に守り維持する。
そして、ここに住む人も旅する人も、男も女も、服を脱ぎ、湯につかり、
国籍も宗教も関係なく、武器も持たずに丸裸で、それぞれの人生のあるときを共有する。
しかし、つかりつづければ頭がのぼせ、誰もそのままではいられない。
入れ替わり湯から上がり、三々五々、ここを去っていく。
人は必ずここを立ち去り、再び訪れる。ゆるやかな循環。
(西本佳世)
                      


別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」
2009年4月11日(土)-6月14日(日)
大分県別府市内各所約20ヶ所
http://www.mixedbathingworld.com/index.html
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